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ヘブライ語で、神の御名は時の概念とつながっています。YeHoVaH(イェホヴァフ)は基本的に、動詞の「~になる」の過去、現在、未来形です。(出エジプト記3章)燃える柴のエピソードで、御名「私は有って有る者(別訳は「私はある」)」という名は、実際には、「私は有る者となる」と言っているのです。


しかしそれであっても、聖書の統語論から見ても全く正しい、というものではありません。実際、その言葉の共通の、現代の意味における、厳密な過去、現在、未来形があるのではありません。この動詞は、文脈に応じて、時には重なり合い、(時制の)意味を変えるのです。

聖書ヘブライ語の初級者であっても、動詞に文字「ヴァブ」がくっつくと、その動詞が未来形から過去形、または、過去形から未来形へと変化する事を知っています。


それは過度な単純化であったとしても、ある意味において、聖書の文章は物語の筋のテーマに沿っており、動詞はその時制を変化させます–前、後、その間、継続、完了、動名詞、動形容詞–その主要テーマに応じて変わるのです。


御名YHVHは、神が永遠なる方であり、時間の制限に依存せず、それに従わない事を表しています。神が第一の根源であり、神は創造主なのです。主は独立しています。それ以外は全て依存しています。主は絶対で、それ以外は相対です。


それには時間も含みます。時間は神の目的と臨在に臨機応変です。時間が主に従い、主に相対し、主に依存します。時間は、神の創造内の創造のシステムまたは道具なのです。神は時や季節を変える事が出来ます(ダニエル2:21)。


神は時間より強いです。強い男の腕が弓に矢をつがえるように、主の目的に応じて、主は時の矢をつがえるのです。巨大な惑星がその周辺に重力圏を設けるように、YHVHの臨在は主の周りの時や空間を曲げます。


これは過度に神秘的に、また非論理的にさえ見えますが、これはアインシュタインの相対性理論に基づいています。光のスピードに相対して、時や物質は引き延ばされ、変化するのです。光だけが絶対で、それは神の臨在と物理的に同じものです。現代の宇宙物理学は聖書の形而上学と一致するのです。


人類が通常の自然な限定要素内に暮らしている時、人は時間や空間の限界に従っています。しかしながら、もし神の介入、または、もし聖霊の領域へと人が動くなら、これらの限界を克服する事となります。


モーセは、主の一日は千年のようで、そして千年は一日のようだと述べています。(詩篇90章)。その瞬間、宇宙が始まり、そこには大量の質量とエネルギー、速度や光がありました。その時の時間の測定は全く違ったものでした。


(これは、創造のタイミングとは食い違っているように思われる事をうまく説明しています。創世記の時間は、アインシュタインの物理学の発見まで、道理に合わないものでした。今や、「若い地-古い地」に関する議論は、アインシュタインの時間の相対性を通して解決出来ます。)


預言者が「聖霊に満たされ」ていた時、彼らは自然の時間の限界から抜け出していました。彼らは現在の中で将来を見、自然な限界を超えて神の無制限な力を通して彼らは経験したのでしょう。


黙示録で、ヨハネは「霊に満たされて」(黙示録1:10)とあります。その時、彼は天の領域から、出来事を見て経験しました。その条件下では、過去、現在、そして未来の差はありません。自然な世界では、限界がありますが、聖霊において、それはありません。


復活前にイエシュアは、主ご自身も神のご計画の時を知らないと語っています(マルコ13:32)。その一方で、復活後、主は、ご自身の弟子は知らないと述べています(使徒1:7)。


イエシュアは、「すぐに」来ると言われました(黙示録22:20)。神の永遠なるタイミングでは、それはほんの数秒でしょう。私たちにとって、そのタイミングは分かりません。


時を表す言葉は、ヘブライ語に2つ、ギリシャ語に2つあります。ヘブライ語で「זמן」(ズマン)はギリシャ語で「クロノス」で、固定した、決められた時間(訳注:通常の時間経過)や日を表します。ヘブライ語で「עת‘et」とギリシャ語で「カイロス」は、出来事が、「今」の瞬間起こる(訳注:神が定めた時)、というものです。


実際、神の絶対的な性質と比較すると、時間は相対的である事は、非常に重要な原則です。多くの聖書箇所、聖書の文法、現代の物理学、YHVHの御名、預言者の経験に多く見られます。


なぜ私がこれらの事を述べるのか?


私たちは、預言者が語る終わりの時に来ています。ヨハネが時の制限を超えるような経験したように、私たちも、神の聖霊が時の制限よりも強い事を理解しなければなりません。


「十分な時間がない」と思わない人はいないでしょう。スケジュールのプレッシャーは苛立ち、無力感、絶望をもたらします。しかし、神の力は、スケジュールの奴隷にならないよう助けてくれます。私たちの時間は神の御手にあります(詩篇31:15)。


私たちは信仰が必要であり、この世の時間によるプレッシャーに晒されるのではなく、聖霊の自由の中で生きる事です。神は私たちのスケジュールを伸ばし、変更し、短くし、導いて下さいます。ヨシュアのために、太陽が止まった(ヨシュア記10:12)、そして、ヒゼキヤのために、太陽が逆行しました(イザヤ書38:8)事を思い起こしましょう。


いかなる瞬間でも神の臨在で満たされます。そこで起こる事は、永遠の重みと重要性があります。聖霊に従順に歩んでいれば、時は曲げられ、私たちの周りを取り囲みます。人には不可能な事でも、神には可能なのです(マタイ19:26)。


ある瞬間は永遠に続くように思われます。そして、「永遠」にあるようなものでも、瞬時に起こります。主の次元のタイミングの中で、神と共に歩みましょう。そして、私たちの時間の経験の中で、神を受け入れて神と共に歩みましょう。


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