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Writer's pictureAsher Intrater

エルサレムの日

Updated: May 31, 2022



5月28日(夕方)から5月29日(夕方)まで、イスラエルでは「エルサレムの日」であり、これは、1967年6月7日(ヘブライ暦ではイヤルの月28日)にエルサレム解放(訳注:再統一。六日戦争でヨルダンが支配していた東エルサレムと旧市街を取り戻した)を記念する日です。ユダヤ人によるエルサレム再奪還はルカ21:24(ゼカリヤ書12:6も参照)に、イエシュアによって預言されています。


残念ながら、イスラムの聖戦主義者と世俗の人間至上主義はこのイベントを解放ではなく、占領だと考えている事です。ユダヤ人のエルサレム所有問題は国際政治の最も議論を呼ぶテーマとなっています。実際、この問題は紛争の中心となっており、それはゼカリヤ書12:2-3に預言されています。


ユダヤ人、クリスチャン、そしてイスラム教徒はアブラハムを信仰の父と見ています。聖書の物語で、創世記12:1に、アブラハムは、神の指示で自分が知らない土地へと行くように言われる所から始まります。その場所はもちろんエルサレムであり、またモリヤ山として知られています。そこで、アブラハムはイサクを「犠牲に捧げるよう」言われるのです(創世記22)。


創世記12:1のラビ的な注解書には、「全てのアブラハムの旅はエルサレムに向かっている」と書かれています。イスラムでは、アブラハムはイサクではなくイシュマエルが捧げられたと信じられています。エルサレム(またはシオン)は、聖書に800箇所書かれています。しかし、コーランには1度たりとも書かれていません。イスラム教徒はメッカを彼らの「聖なる街」と見ており、東エルサレムにいるイスラム教徒が祈る時、彼らは神殿の丘で後ろを向き、メッカに向けて頭を下げて祈ります。


エルサレムは、ヘブライ預言者によって、メシアの御国の宗教的と政治的な中心として見られています(イザヤ書2:1-4;ミカ書4:1-8)。ここは、ダビデとソロモンの王国の首都であり、祭司の神殿がある場所です。ヨハネの黙示録には、エルサレムは天と地が合わさり、エデンの園が回復する場所として描かれています(黙示録21:2、10;22:2)。


クリスチャンの伝統として、エルサレムの天的要素はより強調点が置かれており、一方ユダヤの伝統では、エルサレムの地理的場所に焦点が置かれています。以下、ユダヤ文化でのエルサレムの中心性についていくつか例を挙げていきます(ベガン、マホン・メイル):


  1. ユダヤ祈祷書の中で、日々の18の祈りの中に、ダビデの首都としてのエルサレムの回復が含まれています。

  2. 過越の祭の食事(セデル)では、「来年もエルサレムで」と締めくくります。

  3. ユダヤの婚礼には、ワイングラスを割って、以下を宣言します。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」–詩篇137:5-6。

  4. 食後の日々の祝福の後、宗教的ユダヤ人はエルサレムの回復を祈ります。

  5. 世界中で、ユダヤ教シナゴーグでは、エルサレムに向けて祈るために聖櫃(訳注:トーラーの巻物を収める場所)はエルサレムに向けて造られます。


新約聖書の中では、エルサレムはこれ以上に主要な地位を占めていないでしょう。イエシュアの再臨についての預言は、エルサレムの神殿で述べられました(ルカ1:10-11、2:25、2:36)。イエシュアはエルサレムで割礼を受けました(ルカ2:21)。イエシュアは神殿を浄め、そこで教えました(ルカ19:45、20:1)。主はエルサレムで十字架に付けられ、死者から復活しました。エルサレムから、主は天に戻られ、ここで主がまた戻って来ると約束されました(使徒1:10-11)。


エルサレムで、初期の弟子たちに聖霊が注がれ(使徒2:1-4)、そしてここから世界伝道を開始しました。(使徒1:8)。エルサレムでの使徒の会議は、世界中の初期教会の霊的な権威の中心として見られていました(使徒15:6、22、30)。


新約聖書でのエルサレムの重要性は二千年前に起こった事だけでなく、メシアの再臨に関する未来の預言の場所です。エルサレムから、世界中を覆うリバイバルが拡大します(使徒2:17)。エルサレムから、終わりの時のメシアの運動は叫びます:「『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで」–マタイ23:39–と、イエシュアの再臨を迎えます。


実際、イエシュアはエルサレムに再臨され、主は、エルサレムでメシア的リバイバルを起こし、それは主の再臨の前提条件となり、ダビデの王国で何が起こったのか、福音に何が起こったのか、そして、初期教会で何が起こったのかなどを越える重要性がこの街に与えられています。人類に対する神のご計画は、エルサレムで最高潮に達します。


この理由によって、エルサレムは今日政治的にも霊的にも論争の的となっています。終わりの時の全ての預言は艱難の期間について語り、全ての諸国はエルサレムに敵対し攻撃を仕掛けてくる所で最高潮に達します(ゼカリヤ書14:1)。 この時点で、イエシュアは再臨します。主の足がオリーブ山に立ちます(ゼカリヤ書14:4)。主は、エルサレムに立ち向かって来た全ての諸国を破壊します(ゼカリヤ書12:2、9、14:3、12)、そして、平和と繁栄の御国を立ち上げます(イザヤ書2:4、ミカ書4:4-6、ヨエル書3:17-18、ゼカリヤ書14:14)。


エルサレムを巡る闘いは、基本的に街のためではありません。エルサレムは、イエシュアの御国の首都、地における主の権威を代表する所です。議論は、この地上で誰が政府を運営し、どのようにその政府が管理されるのかを決める神の権利に関するものです。「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。」–詩篇2:2


神は、一人の人(イエス)と一つの場所(エルサレム)を選ばれました。この内の一方、または両方を拒絶する事は、究極的に神の権威を拒絶する事です。イエスの主権とエルサレムの場所は、神の権威と人類の反抗との直接対決の焦点です。「「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」–詩篇2:6。主が望むように政府を誰が、そしてどのように管理するのかは、それは神の権利なのです。(詩篇132:13、17)。


私は、皆さんと共に「エルサレムの日」にご招待し、そして「エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」–詩篇122:6と祈りましょう。

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