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Writer's pictureRon Cantor

分派(ユダヤ教とキリスト教)

Updated: Jun 16, 2022


「ジュディス・リュウの『parting of the ways/分派』は、近年、ユダヤ教とキリスト教間の分裂の標準的な解説書となりました」。

しかし、ジェームズ・ダンによると、分派が起こったのはキリスト教とユダヤ教の間ではなく、異邦人とユダヤ人のイェシュア信者の間であったと主張しています。

議論は「私はユダヤ人かキリスト教徒か」ということではなく...


1.ユダヤ人のイェシュアの信者が、トーラーの儀式的要件(すなわち、カシュルート(食物規定)、割礼、安息日、および祭日)を引き続き実践する必要があるか。


2.キリスト教は、引き続きユダヤ教やイスラエルの神と関連性があるか。


1世紀後半にこの「分派」が起こったと見る人もいます。ユダヤ教は、西暦70年にベン・ザッカイ(将軍ウェスパシアヌスと取引きし、エルサレムを脱出し、イスラエル南部に(ユダヤ教)学校を設立)の下で、パリサイ派ラビ的ユダヤ教として、悲惨なユダヤ戦争から難を逃れました。これはおそらく、ユダヤ人が日常的に祈る「十八祈祷」に19番目の祈祷(ナザレ人/キリスト教徒に対する呪い(訳注:原文benedictionで祝祷ですが、文脈的に合わないので「呪い」としました))が追加された時期でもあり、これにより、ユダヤ人のイェシュア信者がシナゴーグで祈るときには、自分自身に呪いを祈ることとなり、結果的にメシアニック・ジューを追い出しました。彼らはこれを、ユダヤ教がキリスト教から離脱、またはその逆が起こったときと見ています。


しかし、マーク・キンザーは「Post Missionary Messianic Judaism/宣教後のメシアニックユダヤ教」の中で、4世紀後半においてさえ、エクレシア(教会)内でのユダヤ人信者と非ユダヤ人信者の生活が、ユダヤ教的であるかどうかについて議論していたのだと指摘しています。


学者フィリップ・カニンガムは次のように主張しています...


「多くのキリスト教徒が、引き続きユダヤ的伝統に強く惹かれていました。この魅力により、これらの異邦人が、非公式であれ、ユダヤ人の習慣を採用したばかりではなく、かなりの数の「信者」(ユダヤ人と異邦人の両方)に、ある程度のユダヤ的慣行を教会コミュニティ内で続けるよう促していったのです。


「何世紀にもわたって、一部のキリスト教徒はローカル教会での典礼だけでなく、シナゴーグでの式典にも頻繁に通っていたようです。これら2つの境界は、(1世紀以降の)相当長い期間、緩いままであったのです。」 リンデマン、アルバートS .; レビー、リチャードS.- Antisemitism/反ユダヤ主義(p.57)。オックスフォード大学出版局。キンドル版。


これは、信徒たちがユダヤ的生活について魅了され続けていることにより、その地位が脅かされていた司教たちにとっては問題でした。この事が、ユダヤ人に対し嫉妬深い指導者たちによる、最も容赦ない数々の酷評へと繋がりました。弁の立つ者たちが、新約聖書から一節を取り、それは文脈上、身内の議論なのですが、(忠実なユダヤ人で、あらゆる点において律法を遵守していた方)イェシュアを反ユダヤ主義的に仕立て、イメージを換えたのです。


腐敗した指導者に対する叱責は、一般のユダヤ人に対する叱責として現れるようにされました。イェシュア信者は皆ユダヤ人であり、人々に愛されていたことを思い出してください。彼らはユダヤ人である「群衆を恐れた」ため、主を秘密裏に捕らえたのです! (マタイ21:46)


カニンガムは続けて、「主にユダヤ人の内なる議論の一部として生じた新約聖書から論争の的となった箇所を取り上げ、ヘブライ人預言者の内部批判を、ユダヤ人による絶え間ない失敗の証拠として読み取り、キリスト教の教師がユダヤ教の体面を攻撃したのだ」と極端なレトリックで続けます 。


3世紀には、学者オリゲネスが、ユダヤ人国家全体が「人類の救い主に対して陰謀を企てた」と非難しました。


ユダヤ人に対する最も反ユダヤ主義的で悪魔的な酷評の1つは、アンティオキアの金口イオアン(ジョン・クリソストム)の説教集「ユダヤ人に反対」(それがタイトルでした!)にあります。その中で、彼はユダヤ人を憎むことがすべてのクリスチャンの義務であると主張しています。抜粋は次のとおり。


「シナゴーグは売春宿よりもひどい…それは悪党の巣窟であり、野獣どもの盛り場…、偶像崇拝のカルトに捧げられた悪魔の神殿…、山賊と放蕩者の避難所であり、悪魔の洞窟だ。それはユダヤ人の犯罪集会所…、キリストの暗殺者のための集会所…、酒場より悪い家…、泥棒の巣窟、悪名高い家、不法の住居、悪魔の避難所、地獄の湾であり深淵…、私は彼らの魂についても同じであると言う…、私にとって、私はシナゴーグを憎み…同じ理由で私はユダヤ人が嫌いだ。」


彼は信徒がシナゴーグに行くことを禁じました。なぜでしょう?多くの人が、何か価値のあることを学ぶことを期待してユダヤ人のシナゴーグに行っていたからです。クリソストムは反ユダヤ主義であった一方、彼の教区の一部は明らかに親ユダヤ主義でした(ユダヤ民族とその歴史に感謝していました)。


ユダヤ人とキリスト教徒の分裂、つまり分派が1世紀の終わりまでにすでに起こっていたのだとしたら、なぜ彼らは300年後にも、それについて話しているのでしょうか。


明らかに、ユダヤ人と非ユダヤ人からなる多くの信者は、ユダヤ人と彼らの慣習を好意的に見ていました。


西暦325年までは、イェシュアの死と復活を思い出すために、教会の多くの人がユダヤの過越の祭を適用していたことが分かっています。それがニカイア公会議の主な理由の1つでした。以下は、評議会の決定に収められたコンスタンティヌス皇帝の書簡の一部です。


「これは、すべての祭りの中で最も神聖なものであり...、心が盲目となり、最も恐るべき犯罪に手を染めたユダヤ人に従うことは、特に価値がないと宣言する。私たちはユダヤ人と関係性を持つべきではない... 救い主は、私たちに別の方法を示してくれたのだから」


西暦190年のローマのウィクトル1世などの一部の司教たちは、それ程このことに脅かされていた故、ユダヤの過越の祭にイェシュアの死と復活を祝った信者は破門したいと考えました。ニカイアの司教たちにより、それが非合法化されるまで、それについて更に135年間議論されたことは、多くのキリスト教徒が過越の祭を祝い続けたことを示しています。誰もそれを祝っていなかったのであれば、何故それを非合法化する必要があったのでしょうか?教会評議会は必要性のある問題のみを扱うものなのですから。


もう1つの例として。306年、スペインのエルビラで、教会評議会はクリスチャンがユダヤ人と一緒に食事をしたり、作物を祝福したりすることを禁じました。なぜでしょうか?それが明らかに、司教たちに警戒感を引き起こさせるレベルで起こっていたからです。


その意味するところ:

エククレシア内の内部分裂として始まったものは、「多国籍エククレシアとユダヤ人の間の分裂」となってしまいました(キンザー、211)。言い換えれば、教会がユダヤ教から完全に分派してしまう前に、教会は最初に教会内のユダヤ人信徒から分裂しました。4世紀の神学者であるヒエロニムス(ストライデンのジェローム)は、メインストリームのキリスト教とユダヤ教の両方により受け入れられるようになるモットーとなる、「キリスト教徒であり、ユダヤ教徒でもあると主張する人は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもあることができない」-と言い換えています。


したがって、癒しが起こるため、キリスト教が単にユダヤ教との和解を求めているという訳ではなく、ユダヤ人メシアを受け入れるため、自身のユダヤ性を否定しなければならなかったユダヤ人イェシュア信者との和解を求めているのです。


キンザーは、以下のようなトーマス・トーランスの言葉を引用しています、「神の民における最も深い分派は、キリスト教徒とユダヤ人教会の間の分派でした」(キンザー、212)—それは異邦人信者とメシアニック・ジューの分派を意味しています。


病気の根源に対処することなしに病気の結果である症状を治療することはできないのです。

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