top of page
Writer's pictureAsher Intrater

純粋な動機



神の御国では純粋な動機が重要です。神は心正しい世界の人々に来て欲しいと願っておられます。それゆえ、主は「ボヘン・レヴァヴォット(心を検証する者)」と呼ばれるのです。

歴代誌第128:9 「主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。」

多くの人々は、正しい動機で主に仕えていると思っていますが、実際は、隠されている、自分に利する動機があるのです。 箴言16:2 「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。」

「ボーン・アゲイン(主によって霊が再び誕生する)」となった人は、その心の動機の基礎的なレベルも変えられます。その時から、その人の基本的、霊的な直観が正しくなります。しかし、それでもなお、正されるべき底辺にある自己中心的な動機の層があります。それは、聖化の過程で見られます。残念ながら、今日、多くの人々は主に仕えようとしていますが、フルタイムの宣教活動の中においても、一部間違った動機で行っています。 山上の垂訓は、人々の行動は外側から見ると正しく見えても、その心の動機は間違っているという普遍的な現象について対処しています。たとえ、貧しい人にお金を与える、または断食をもって祈るなどの、そのような賛美に値する行動であっても、人に、自分が霊的であると人々に思わせたいという動機があるのです。それが偽善というものです。 モーセの律法は、何が正しい行動なのかを定義しています。そして、それは正しい行動なのです。しかしながら、主は、正しい行動だけでなく、正しい動機を求めておられます。そこに、十字架が入ってくるのです。アダムとイヴがエデンの園で罪を犯した時、彼らは肉欲とプライドに影響されていました。それゆえ、神の前に正しい行動は何であれ、プライドと肉欲を除去しなければなりません。 プライドは霊的な真理の目を眩ませ (マタイ11章)、そして肉欲は、人を、倫理的な価値について欺かせるのです (エペソ4章).律法は、正しい行動について対処し、十字架は正しい動機に対処します。神の前に完全に正しいどんな行動であっても、そこには自分に死ぬ要素がなくてはならないのです。 イエシュア(イエス)の死と復活は全ての義の行いの主要なパターンです。十字架は来たる世界への通り道であり、間違った動機をこしとるふるいであり、私たちの人生が裁かれるテストなのです。 第一コリント4:5 「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」

それゆえ、正しい動機は来たる世界への裁きの一部なのです。人生の中で、自己中心的な動機が生まれる、一見良き行動に見えるものは報われません。純粋な動機から生まれたそのような行動は報われます。ミニストリーの指導者としてどれほど自己正当化な動機で行動しているかを考えると怖いと時々思います。 イスラエルで、これについて特に問題となっています。ここが「聖なる地」であるため、ミニストリーを行う上で、ある程度惹きつけるものがあります。聖霊な戦いが関わるため、実を実らすのは困難です。(イスラエルは)世界で唯一、「信者」よりも「ミニストリーを行う人」の数が多い国です。この地で行われたミニストリーは、写真が撮られ、公開され、誇大表現され、そして資金集めのために使われるのです。 もちろん、これはイスラエルだけの問題ではありませんが、世界の「ミニストリーに関わる」全員にとっての課題なのです。神よ私たちを助けて下さい。 第一テサロニケ2:3-5 「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実をもうけたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」 これを再びお読みください。私たちは純粋な動機でミニストリーを行わなければなりません。私たちは人間中心主義的に人々を喜ばせるような方法でない事を教える必要があります。私たちはミニストリーでの決定が、それからお金を得られるかどうかで判断すべきではありません。 幾人かの牧師たちは人々に、地元のコングリゲーションに従う必要があると伝えますが、人々を啓発するのではなく、彼らの群れの人数を増やすためなのです。彼らは人々に献金するよう伝えますが、福音を進める事や人々を祝福するように伝えず、自身の給与を上げ予算が満たされるために言うのです。 幾人かは倫理的な課題なしに恵みの神学を教えます。それは単に、キリストの御名において肉体的感覚のライフスタイルを正当化するサブカルチャーを作り出すのです(ガラテヤ5:13)。幾人かの夫たちは妻に従うように伝えますが、キリストのイメージへと自身を聖化させるためではありません (エペソ.5)。むしろ、自身の欲に彼女たちを従わせるために利用しているのに過ぎません。時々、私たちは、隠された自身の欲を満たす動機のために祈るような事さえしています (ヤコブ4:3)! 正しい動機の注意すべき例外は、未信者に福音を宣べ伝える事です。

ピリピ1:18 「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、」


重要な事は、いかなる方法であっても、それが偽の動機、または正しい動機であっても、キリストが宣べ伝えられる事です。

伝道は生と死の問題です。もし消防士が誰かを炎から救い出したとして、彼がそれがマッチョになるための動機でやっていたとしても、気にならないでしょう。それがどうしたというのでしょうか。ただその人を救助せよ。偽の動機で主の御名を使って奇跡を行った人をイエシュアが叱責したとしても(マタイ7章)、主は、福音を伝える事については何も言われませんでした。 この問題はまた逆にも作用します。未信者に福音を宣べ伝える事は、心を浄める活動の一つです。その理由は、今日多くの指導者は他者を利用し、利己的になり、シンプルな個人伝道から遠さがっています。コンピュータから離れて、「指導者」の集会から離れ、未信者と救いについて話す時です。 最後に、動機の純粋さは聖書を学ぶ中心的な目標です。 「 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヘブル4:12 私たちは聖書を黙想しますが、知識を得るためではなく、自分の態度を変えるためです。私たちのデボーションの「方法」は御言葉を心深くに浸透させるもので、不純な動機を除くものです。これは日々の「外科手術」であり、心の意図を正すものです。私たちは、神の御言葉が私たちの心の中の動機を検証し、変えるようにするのです。

Comments


bottom of page